水鏡「灯穂奇譚」 感想
- 2016/06/24
- 21:16
新作発売日なのに注文するのを忘れていたが故に発売日に新作をプレイできないオタクです。予約はやっぱり早めにしないとダメですね。ちなみに個人的に新作を買うメリットは、メーカーだとか声優へのお布施、予約特典や初回特典が手に入るというそれ以上に、「誰よりも早く、何の印象操作もなく純粋な状態でその作品に触れることができる」ことだと思ってます。ツイッター見てるくせに自分勝手ですね。
さて、感想とか書いてありますが、ゲームの内容がどうだとかここはこうじゃないかとかひたすら物申すようなものでもなく、ただ自分が好きなように好きなことを語るだけです。どこがネタバレだとかはあんまり意識してませんが、本質に触れるので無意識のうちにガンガンネタバレしてると思います。未プレイの方はごめんなさい。
灯穂奇譚は2005年に水鏡というブランドから発売された同人作品なのですが、ライターがあのケロ枕で有名な某氏の別名義だったり、原画家サウンドなどどう考えてもケロ枕としか思えないクリエイター陣なので、実質商業作品みたいなもんです。低価格なので短編ですが内容もかなり充実していますし、テキストの質も高い。そのくせ(少なくとも自分が買った時には)ワンコインで買えましたからね。数と完成度の兼ね合いが中古価格に反映されるとは言えど、これはちょっとよく分からないですね。
今作で語られる死生観について
「死んだ人間を再び生き返らせるとはどういうことか」という話。これはある種のタブーであり、人は一度死んでしまえば、転生して生まれ変わることはあれど、フィクションでもない限り生き返りません。ポンポン人が生き返る世界観なら良いですが、今作の場合はそもそも「人を生き返らせる」ということ自体が因習として伝えられています。
トゥルー√の最終シーンでは、主人公とサユキさんは無意識のうちに人が生き返ることを肯定します。たとえ自分の身を削ってでも、一度死んだカナタを長生きさせてあげたい。おそらく頭ではいけないことだと分かっていながらもそれを望み続けます。それが目の前に現れた奇跡に対する意識であり、どこぞのド田舎に来た目的であり、生きる目的だったのかもしれません。
勿論当の本人は否定しますし、真実を知った後は結局自ら消える道を選んでしまいます。「死人がここに居てはいけない」というのが本人の考え方です。偶然貰った命で目的を果たせたとは言うものの、やはり一度は死んだ身ですから今後も生きたい気持ちでいっぱいだったとは思いますが、それ以上に主人公とサユキさんの命を削るのが耐えきれない、既に死んでいるはずの自分が他人を蝕みながら生きることが何よりも耐えられてなかったのでしょう。
結果的にサユキさんは新しい子供を産みます。その子供はカナタに酷似していますが、主人公もカナタも決してカナタに重ねることはしません。どんなにカナタのようであってもこれはカナタではない。一度死んだ人の影に新しく生まれた命を重ねるというのがそもそもいけないという考え方です。
結局何が言いたいのか自分でもよく分からなくなりましたが、要は「命は生まれ変わるものであり、同じ命は二度とは生まれない」ということなのでしょうか。村の因習で復活するのは、消えた命ではなくて命のような何か。すなわち良く出来た幻影のようなものです。
灯火(作中で言うところの灯穂?)
命の炎は灯火にたとえられます。本編の日本の古文書の引用によれば、1日に1000の魂が消え、1500の魂が生まれるみたいな話。現世と死後の世界の境界のような場所に全ての命の魂が灯火として宿り、それが人それぞれの命を表現しています。
考えてみれば人の命を灯火に例えるというのは非常に面白いです。例えばロウソクに火をつければ一瞬で火が灯る。しかし強い風が吹けばたちまちそれは一瞬にして消えてしまう。たとえ強い風が吹かなかったとしても時間が経てばロウが溶けきり火は消える。命も同じようなもので、同じように生まれても、その消え方は様々であり、一度消えてしまったら外部から生命力でも注入しない限り(無理)回復しません。ロウが溶けきるまで何度でもやり直せるようなものではなく、火をつけるチャンスがそもそも1回だけなのです。
これを転生という考え方に当てはめてみると、同じマッチの火で2つのロウソクに火を灯したという状態です。ロウ(いわゆる肉体)は違えど、根本となる火(生命)は同じであり、この火が同時について同時にロウが消費されることは現実ではありえないのですが、これが時間差で起こると考えられます。
ちなみにこうなると、たとえどんなに同じようなロウを使い、同じ火を灯したとしても、それは完全に違うロウソクであり、似て非なる存在です。どんなに見た目と中身が一緒でも、全く同じロウが燃えているわけではないので、一度溶けきってしまったロウが復活するなどしない限り、同じ人間が現れることはあり得ません。もしかしたらこのあたりのことが、エピローグにおける「新しい子をカナタと重ねない」ことに影響しているのかもしれません。仮に全く同じ肉体だったとして、カナタの肉体は完全に消えてしまっているし、新しい子の肉体は今そこに存在しているからです。
テーマソング「under the different sky」について
いつもの某氏(素晴らしき日々とかサクラノ詩とか)なら、幸福な生なんかを語りそうな気がしますが、この歌詞で一貫して語られているのは「同じ景色を見ているわけではない」みたいな話と「残酷で美しい空」みたいな話です。
人は誰しも同じ景色を見ているわけではないというのは、人それぞれに幸福や人生の尺度があるということに繋がりそうですが、そもそもこの歌では幸福と不幸の存在はあまり重視されていません。しかし2番の歌詞では、同じ景色を見ているわけではない人たちに対して「でも感じるはずだよ」と問いかけていたりします。
仮に「残酷で美しい彼方」=黄泉の世界という解釈を取るなら、「人は生まれながらにして他人と同じ世界を生きることは出来ないが、最後には必ず同じ道を通って死んでいく」と言うことができます。残酷というのはこの先の未来が紡がれないことに対して、美しいというのは沢山の思い出を背負って強くなってこの道を通る人の感情に対してのものだと自分は思っています。
最後に軽く英語の歌詞について触れておくと、
Under the differnt blue sky, that can't see the end.
So far away, can't touch the true sky.
Cruelly, the pure song echo.
Echoing gently the pure song.
Echoing the pure song.
Repeating the pure song again,
over again...
前半部分については、終わりだとか本当の空を死後の世界(≒ゴール)と仮定して、これは要するに黄泉の世界の話なんじゃないかと思います。人は本当の終わりを見る前に死んでしまうということなのか。そして触れることができないその終わりにこそ本当の空(これが何の比喩なのかはおいといて)があるのかもしれません。
けれどもその後の歌がエコーするところは自分には何のことだか全く分かりません。3行目からあとは殆ど同じことの繰り返しですが、歌が意味するものも分からないし、どこで反響しているのかも分からないです…。
まとめ
何が言いたいのか全く分からない上にありきたりなことばっか書いてある典型的な妄想語りで申し訳ないですが、死生観について色々考えるいい機会になったような気はします。素晴らしき日々では終ノ空で同じようなことを考えられますけど、あれはどちらかというと世界のギミックについてに目が行くので、むしろ作品全体としての完成度を評価するべきなのかもしれません。サクラノ詩は幸福を語る作品ですし、そう考えるとこの作品は短編ながら面白く、某氏の考える死生観について気軽に触れることができる良い作品なのではないでしょうか。自分はかなり好きです。
さて、感想とか書いてありますが、ゲームの内容がどうだとかここはこうじゃないかとかひたすら物申すようなものでもなく、ただ自分が好きなように好きなことを語るだけです。どこがネタバレだとかはあんまり意識してませんが、本質に触れるので無意識のうちにガンガンネタバレしてると思います。未プレイの方はごめんなさい。
灯穂奇譚は2005年に水鏡というブランドから発売された同人作品なのですが、ライターがあのケロ枕で有名な某氏の別名義だったり、原画家サウンドなどどう考えてもケロ枕としか思えないクリエイター陣なので、実質商業作品みたいなもんです。低価格なので短編ですが内容もかなり充実していますし、テキストの質も高い。そのくせ(少なくとも自分が買った時には)ワンコインで買えましたからね。数と完成度の兼ね合いが中古価格に反映されるとは言えど、これはちょっとよく分からないですね。
今作で語られる死生観について
「死んだ人間を再び生き返らせるとはどういうことか」という話。これはある種のタブーであり、人は一度死んでしまえば、転生して生まれ変わることはあれど、フィクションでもない限り生き返りません。ポンポン人が生き返る世界観なら良いですが、今作の場合はそもそも「人を生き返らせる」ということ自体が因習として伝えられています。
トゥルー√の最終シーンでは、主人公とサユキさんは無意識のうちに人が生き返ることを肯定します。たとえ自分の身を削ってでも、一度死んだカナタを長生きさせてあげたい。おそらく頭ではいけないことだと分かっていながらもそれを望み続けます。それが目の前に現れた奇跡に対する意識であり、どこぞのド田舎に来た目的であり、生きる目的だったのかもしれません。
勿論当の本人は否定しますし、真実を知った後は結局自ら消える道を選んでしまいます。「死人がここに居てはいけない」というのが本人の考え方です。偶然貰った命で目的を果たせたとは言うものの、やはり一度は死んだ身ですから今後も生きたい気持ちでいっぱいだったとは思いますが、それ以上に主人公とサユキさんの命を削るのが耐えきれない、既に死んでいるはずの自分が他人を蝕みながら生きることが何よりも耐えられてなかったのでしょう。
結果的にサユキさんは新しい子供を産みます。その子供はカナタに酷似していますが、主人公もカナタも決してカナタに重ねることはしません。どんなにカナタのようであってもこれはカナタではない。一度死んだ人の影に新しく生まれた命を重ねるというのがそもそもいけないという考え方です。
結局何が言いたいのか自分でもよく分からなくなりましたが、要は「命は生まれ変わるものであり、同じ命は二度とは生まれない」ということなのでしょうか。村の因習で復活するのは、消えた命ではなくて命のような何か。すなわち良く出来た幻影のようなものです。
灯火(作中で言うところの灯穂?)
命の炎は灯火にたとえられます。本編の日本の古文書の引用によれば、1日に1000の魂が消え、1500の魂が生まれるみたいな話。現世と死後の世界の境界のような場所に全ての命の魂が灯火として宿り、それが人それぞれの命を表現しています。
考えてみれば人の命を灯火に例えるというのは非常に面白いです。例えばロウソクに火をつければ一瞬で火が灯る。しかし強い風が吹けばたちまちそれは一瞬にして消えてしまう。たとえ強い風が吹かなかったとしても時間が経てばロウが溶けきり火は消える。命も同じようなもので、同じように生まれても、その消え方は様々であり、一度消えてしまったら外部から生命力でも注入しない限り(無理)回復しません。ロウが溶けきるまで何度でもやり直せるようなものではなく、火をつけるチャンスがそもそも1回だけなのです。
これを転生という考え方に当てはめてみると、同じマッチの火で2つのロウソクに火を灯したという状態です。ロウ(いわゆる肉体)は違えど、根本となる火(生命)は同じであり、この火が同時について同時にロウが消費されることは現実ではありえないのですが、これが時間差で起こると考えられます。
ちなみにこうなると、たとえどんなに同じようなロウを使い、同じ火を灯したとしても、それは完全に違うロウソクであり、似て非なる存在です。どんなに見た目と中身が一緒でも、全く同じロウが燃えているわけではないので、一度溶けきってしまったロウが復活するなどしない限り、同じ人間が現れることはあり得ません。もしかしたらこのあたりのことが、エピローグにおける「新しい子をカナタと重ねない」ことに影響しているのかもしれません。仮に全く同じ肉体だったとして、カナタの肉体は完全に消えてしまっているし、新しい子の肉体は今そこに存在しているからです。
テーマソング「under the different sky」について
いつもの某氏(素晴らしき日々とかサクラノ詩とか)なら、幸福な生なんかを語りそうな気がしますが、この歌詞で一貫して語られているのは「同じ景色を見ているわけではない」みたいな話と「残酷で美しい空」みたいな話です。
人は誰しも同じ景色を見ているわけではないというのは、人それぞれに幸福や人生の尺度があるということに繋がりそうですが、そもそもこの歌では幸福と不幸の存在はあまり重視されていません。しかし2番の歌詞では、同じ景色を見ているわけではない人たちに対して「でも感じるはずだよ」と問いかけていたりします。
仮に「残酷で美しい彼方」=黄泉の世界という解釈を取るなら、「人は生まれながらにして他人と同じ世界を生きることは出来ないが、最後には必ず同じ道を通って死んでいく」と言うことができます。残酷というのはこの先の未来が紡がれないことに対して、美しいというのは沢山の思い出を背負って強くなってこの道を通る人の感情に対してのものだと自分は思っています。
最後に軽く英語の歌詞について触れておくと、
Under the differnt blue sky, that can't see the end.
So far away, can't touch the true sky.
Cruelly, the pure song echo.
Echoing gently the pure song.
Echoing the pure song.
Repeating the pure song again,
over again...
前半部分については、終わりだとか本当の空を死後の世界(≒ゴール)と仮定して、これは要するに黄泉の世界の話なんじゃないかと思います。人は本当の終わりを見る前に死んでしまうということなのか。そして触れることができないその終わりにこそ本当の空(これが何の比喩なのかはおいといて)があるのかもしれません。
けれどもその後の歌がエコーするところは自分には何のことだか全く分かりません。3行目からあとは殆ど同じことの繰り返しですが、歌が意味するものも分からないし、どこで反響しているのかも分からないです…。
まとめ
何が言いたいのか全く分からない上にありきたりなことばっか書いてある典型的な妄想語りで申し訳ないですが、死生観について色々考えるいい機会になったような気はします。素晴らしき日々では終ノ空で同じようなことを考えられますけど、あれはどちらかというと世界のギミックについてに目が行くので、むしろ作品全体としての完成度を評価するべきなのかもしれません。サクラノ詩は幸福を語る作品ですし、そう考えるとこの作品は短編ながら面白く、某氏の考える死生観について気軽に触れることができる良い作品なのではないでしょうか。自分はかなり好きです。